セルゲイ・ラフマニノフはロシア帝国出身の作曲家です。
ピアニストでもあり、多くのピアノ曲を遺しています。
彼の曲は、漫画の題材や映画音楽、フィギュアスケートなどで使用されることがあります。
そのためクラシック音楽愛好家でなくても馴染みがある作曲家といえるでしょう。
セルゲイ・ラフマニノフは1873年にロシア帝国のノヴゴロド州で生まれました。
貴族の家系であり祖父はアマチュアピアニストでした。
セルゲイも幼少時からピアノを習いましたが、9歳の時に一家は破産してしまいます。
その後両親は離婚し、母と共にセルゲイは当時の首都であるペテルブルグに移住しました。
そして才能を認められ奨学金でサンクトペテルブルク音楽院に入学しました。
その後モスクワ音楽院に転入し、ピアノの特訓に励みます。
学生時代の彼の才能はピョートル・チャイコフスキーからも注目されていました。
ラフマニノフもチャイコフスキーを尊敬していました。
ラフマニノフは1891年に18歳でピアノ科を首席で卒業しました。
また翌1892年には作曲科も首席で卒業しました。
同年に自身によって初演した、「鐘」という愛称で知られる『前奏曲嬰ハ短調』は大評判となりました。
しかし1897年初演の交響曲は、指揮者との意思疎通の不十分などが原因で大失敗の結果となり酷評を受けてしまいます。
それが原因で精神的に参ってしまったラフマニノフは、数年間作曲活動がほとんどできなくなりました。
挫折から回復したラフマニノフが1900年から1901年にかけて作曲した『ピアノ協奏曲第2番』の初演は、大成功を収めました。
この作品は賞を取り、彼の作曲家人生の全盛期を迎えました。
1902年には、いとこと結婚をしました。
1904年からは劇場で指揮者を勤め、1906年からはドイツのドレスデンを拠点として作曲活動を行いました。
1909年からは演奏旅行でヨーロッパとアメリカの各地を訪れました。
しかし1917年のロシア革命の渦中に演奏旅行に出かけて、ラフマニノフは二度と祖国には戻りませんでした。
その後はアメリカに移住してピアニストとして生計を立てました。
そして作曲活動はほとんど行わなくなりました。
演奏活動で忙しかったということもありますが、長く祖国を離れたことで作曲のインスピレーションを失ってしまったことも原因でした。
彼の創作活動にはロシアの日常風景は欠かせないものだったのです。
セルゲイ・ラフマニノフの曲は後期ロマン派に属します。
短調の曲が非常に多いことが特徴です。
作品にしばしば使われている重厚な和音は、彼がロシアで日常的に耳にしていた教会の鐘の音を表現しているといわれています。
甘美でロマンチックな旋律は聖歌やロシア民謡の影響もうかがえます。
彼は雑誌のインタビューに対して、「作曲の際にはロシア風であることなどを意識する努力はせずに、浮かんだままのメロディーを自然に書いている」という趣旨の回答をしています。
ラフマニノフは身長が2m近くあり、手も巨大で12度の音程を左手で押さえることができたといわれています。
また指の間接も柔軟で、非常に高い演奏技術を持ち合わせていました。
そのため彼が作曲したピアノ曲は全体的に難易度が高く、プロであっても手の大きさに恵まれた限られた人でないと再現できない曲もあるほどです。
ラフマニノフの作品は、当時の評論家からはよく酷評されました。
彼の作風は伝統的で保守的であるとされ、前衛的な作曲家が持てはやされる時代だったのです。
そんな中でも一般の聴衆からは圧倒的な人気がありました。
それを目にしても評論家は「人気は長く続かない」と批判を続けました。
しかしその予想は外れて、ラフマニノフの曲は現在も高い人気を誇ります。
セルゲイ・ラフマニノフが自ら演奏した音源は現在も残っていて、彼の超絶技巧を聴くことができます。