アントニオ・ヴィヴァルディはバロック後期の作曲家で、世界的に有名な天才音楽家のひとりです。
ヴィヴァルディが誕生したのはイタリアのヴェネツィアで、10歳で教会付属の学校に入ります。
父親は理髪師として生計を立てていましたがヴァイオリンの才能があり、ヴィヴァルディも幼少時から父親のもとでヴァイオリンを習います。
父親は音楽仲間との交流が深く、息子は父親の音楽仲間から作曲法を学びます。
25歳で司祭になったヴィヴァルディは由緒ある音楽院でヴァイオリンの教師になり、作曲家としての活動も始めます。
音楽院で作曲と合奏を指導しつつ作品1を出版し、この曲はヴェネツィアの貴族に献呈されます。
1709年2月に音楽院との契約が切れたヴィヴァルディは、12曲からなるヴァイオリンソナタ集を発表します。
1711年9月に音楽院との契約を更新すると、作品3となる調和の霊感が出版されます。
音楽院の合奏長が辞職すると、後任の合奏長が決まるまで宗教曲を作曲することになります。
1713年には処女作となるオペラがヴェネツィアの有名劇場で初演されます。
音楽院で音楽を子どもに教えるという立場だったヴィヴァルディですが、作曲家としての実力はヨーロッパ中に広まります。
各地で公演されたオペラも好評で、音楽院で働きながらオペラの作曲にも熱心に取り組むようになります。
1718年からの2年間は宮廷学長として仕事をし、音楽院のためにも協奏曲を提供します。
ヨーロッパ各地を旅行したヴィヴァルディは、1723年から1724年にローマに滞在して3曲のオペラを上演します。
1725年に四季を含むヴァイオリン協奏曲が作品8として世に出ます。
1728年になると神聖ローマ皇帝のカール6世に謁見するチャンスが訪れます。
ヴィヴァルディはカール6世に手書きの協奏曲集を献呈します。
1730年と翌年にプラハでオペラを上演したヴィヴァルディは、1732年から5年間イタリアの各都市でオペラを上演します。
ヴィヴァルディの名はオペラの作曲家としてイタリアだけでなくヨーロッパ中で知られるようになりますが、イタリアではナポリ派のオペラが人気を集めるようになりヴィヴァルディの人気は衰え始めます。
1738年になると音楽院を辞めますが、作品の供給はウィーンに行くまで続くことになります。
ヴィヴァルディは念願だったウィーンでのオペラ興行を決めますが、有力なパトロンだったカール6世が逝去したため予定していたオペラの上演が1年間延長されることになります。
その当時は興行主が全ての準備を行っていたので、ヴィヴァルディは大きな打撃を受けます。
カール6世の娘マリアが跡を継ぐと戦争の色が濃くなり、ヴィヴァルディに関心を持つ貴族はほとんどいなくなります。
失望で体調を崩したヴィヴァルディは故郷であるヴェネツィアに帰ることもできず、1741年7月28日に劇場が用意していた宿舎で亡くなります。
63歳で死去したヴィヴァルディの死因は不明です。
旅行者の葬礼は簡素で遺体は病院付属の貧民墓地に埋葬されます。
この貧民墓地は取り壊され、現在では大学になっています。
ヴィヴァルディの死後、彼が上演したかったオペラは予定通り上演されます。
現在、ヴィヴァルディは音楽家として揺るぎない評価を受けています。
20世紀に入ると音楽関係者の尽力で楽譜の整理と校訂が行われ、ヴィヴァルディの作品は多くの人々の耳に届くようになります。
世界的に有名な合奏団が1955年に初めてヴィヴァルディの四季を録音し、レコードは2500万枚以上の大ヒットを記録します。
このレコードのおかげでヴィヴァルディの名は一躍有名になり、他の楽曲も頻繁に演奏されるようになります。