リヒャルト・ワーグナーは、1813年に現在のドイツで生まれました。
当時はフランスのナポレオン戦争の真っ最中でした。
父親はリヒャルト・ワーグナーが生まれてすぐに病気で亡くなり、母親はその翌年に再婚しました。
母親が再婚した相手は夫の親友でもあった俳優です。
リヒャルト・ワーグナーは演劇一家で育ちました。
亡くなった父親も非常に芝居が好きで、母親の再婚相手は俳優、そして兄弟はオペラ歌手や女優、歌手などとして活躍していました。
彼は叔父から文学の世界を教わり、詩人や音楽家を目指すようになりました。
18歳で大学に入学すると音楽を専攻します。
同じころに作曲の基本を学んで、翌年には初めて歌劇を作曲しました。
1833年になると市立劇場の合唱の指揮者を受け持つようになりました。
ここから音楽監督として様々な地方都市を渡り歩くことになります。
借金に追われ貧困に苦しみながらも、作曲家として再生できるように活動を続けていきます。
1836年に女優と結婚しますが、その後は借金に追われ夜逃げ同然で1839年にパリへ移ります。
パリでも歌劇を執筆しましたが、ここではまだ認められることもありませんでした。
この二曲は故郷のドイツで上演されることが決まり、1842年にドイツにもどります。
ここでの初演が大成功をおさめ、なんと宮廷指揮者のいすが転がり込んできたのです。
スイスで亡命生活を送ることになりますが、ここでは新しい世界を開拓することになります。
そしてリヒャルト・ワーグナー独自の音楽と激が融合する楽劇の理論をつくりあげました。
1862年には亡命生活が終わり、その後は各地を転々としながら最終的にスイスに腰を落ち着けます。
そして長年の夢であった劇場の建築をはじめ、1876年に劇場が完成されました。
ここでは全曲公演が行われたのです。
このような人生を送ってきたリヒャルト・ワーグナーには様々な逸話があります。
まず最初に彼は13のすべてにこだわりました。
1813年に生まれ、劇場が開場されたのは8月13日、最後の日を過ごしたのは9月13日であり、さらには名前のアルファベットが13文字で亡命生活も13年間でした。
キリスト教徒にとっては13は不吉な数だと言われていますが、ワーグナー本人はこの13に非常に魅せられていました。
ちなみに彼がなくなった日も13日だったのです。
そして彼は多くの女性に影響を受けました。
姉妹も多く、協力者やファンの中に多くの女性が存在していました。
彼の人生は恋多き人生だったといえるでしょう。
特に最初の妻は無名時代の彼とともに生活し、苦しいやり繰りの中で家計を支えていました。
そしてパリで行われた公演はトラブルののちに打ち切られた逸話があります。
1861年に念願のパリオペラ座で上演が行われましたが、だんだんと妨害行為が行われるようになり、最終的に公演は打ち切りとなってしまいました。
これは大失敗となってしまいましたが、この上ないトラブルによって宣伝効果が生まれ、より多くの崇拝者をフランスに持つことにもなりました。
そして彼にはユダヤ人の友人や知人が多く、周りにはユダヤ人が数多く存在していました。
しかし反ユダヤ思想が重症化し、最終的には憎悪を抱くまでになってしまったのです。
最後に哲学者のニーチェと交流があったとされています。
哲学者のニーチェが学生時代からワーグナーのファンであり、1868年に初めて出会って以降、何度も彼の自宅を訪れています。
30歳以上も年が離れたニーチェでしたが、親しい友人として付き合っていました。
しかし最終的にニーチェは彼への懐疑の念を強めていくことになり、最終的には執筆した書物の中でワーグナーの批判をし、二人は決別することになりました。