フェリクス・メンデルゾーンといえば、音楽家として知っている人は多いはずです。
音楽室などの肖像画などに飾られていることも少なくありませんので、それほど音楽に興味がない人でも見たことがあるはずです。
とはいえ、実際にどのような曲があるかと言われればなかなか答えられる人はいません。
では、どのような人なのかをまず紹介していきます。
メンデルゾーンは、1808年生まれでヨーロッパのドイツに誕生しました。
この時日本はまだ江戸時代の中後期ごろであと60年もすれば日本は江戸時代に終わりを告げるほどです。
ドイツではすでに日本よりも進んだところがあり、芸術に目覚めていた部分があります。
音楽といっても本格的にピアノやオルガンなどを利用しているためすでにこの段階でそれなりの曲が出来上がっていました。
祖父は哲学者で、学力の非常に高い絵でした。
一方で姉の方は音楽活動に勤しんでおり作曲家として活躍しています。
子供のころから抜群の才能を持っているとして知られているメンデルゾーンでしたが、当時まだそのような才能を発揮するとは思っていませんでした。
将来的には、あの有名なバッハにも大きな影響を受けています。
当然ながら当時まだバッハはメンデルスゾーンの先輩でした。
ユダヤ系の家系に生まれたメンデルスゾーンは、迫害を受けることが多くキリスト教に改宗した後もたびたび迫害が行われたとされる記録があります。
そのような過酷な状況の中でも、しっかりとした業績を上げており世間への影響力は非常に強いものでした。
ただ、ユダヤ系とされていただけで実際に質の高い音楽を作っていながらなかなかその音楽が生前に評価されることはありませんでした。
このように、歴史の中で正しく評価されていない人は多いですが、この人もその一人になります。
子供のころは、母親が音楽に興味を持っておりピアノを学ぶんでいましたがよく言われるように3歳ぐらいから英才教育を受けていたわけではありません。
平均的な年齢とされている6歳ぐらいからピアノを習い始めます。
それと同時に、プロのレッスンも受け子供のころから才能をいかんなく発揮したのが特徴です。
1821年には、あのゲーテを訪問して2週間ほど滞在することになりました。
ゲーテはそれだけの訪問を許すと言うことはそれだけ彼の才能を見抜いていたといえるでしょう。
もちろんゲーテ自体は音楽家ではなくどちらかといえば脚本家的なイメージでしたが、同じ才能を持った人同士でつながり合うと言う話しは昔から本当にあったわけです。
その後、ゲーテの影響もありシェイクスピアの戯曲を題材とした作品を発表しました。
これが夏の陽の夢と呼ばれるものになっており後々世の中で評価されるにいたってきます。
31歳になるころには、ドイツのプロイセン王に招かれて音楽活動を始めます。
ベルリンの宮廷に生きそこで礼拝堂楽長と呼ばれる地位に就任することになりました。
やはり当時から才能が見抜かれていたのでしょう。
当時の30歳といえば今でい言うところの40代後半ぐらいの年齢に匹敵しますのである程度知名度が高かったことが証明されています。
34歳になった時には、音楽院を開講し院長となりました。
ところがよいことばかりが起こったわけではなく38歳の時に姉が亡くなりその影響で精神障害を起こすにいたります。
一時的には回復しましたが、その後再び意識を失うなどの精神的な障害が起こってしまい翌日には亡くなってしまいました。
やはり今のような医学の力も当時はありませんでしたので、あくまで締めるしかありませんでしたがやはり寿命としてその運命を受け入れるしかなかったのでしょう。
このように、ドイツに生まれた天才は波乱万丈の人生を歩むに至っています。