フランツ リストはハンガリー出身のピアニストで、ドイツやオーストリアで活躍しました。
彼は幼少期から音楽の才能に秀でており、鍵盤10個を片手で押さえたり素早く指を動かす演奏をしたりしたため指が6本あるのではないかと言われていました。
初見の曲であっても上手に弾いてみせる完璧ぶりでしたが、ピアノの詩人と呼ばれたショパンの「12の練習曲・作品10」だけは一発で成功できずに数週間引きこもって練習しました。
彼が12歳の頃にウィーンで演奏会を開いた時にはベートーヴェンも聴きに来るほど注目されていたため、終わってからパリのコンセルヴァトワールへの入学を希望しました。
しかしフランス人ではないという理由で入学は断られます。
音楽家としての道が絶たれたかのように見えたリストでしたが、オレルアン家へのサロンに招かれたことで再び喝采を浴びることとなりました。
オレルアン家とはフランスの中でも格式高い家系で、そのサロンには多くの文化人が集まっていました。
リストは1つのお題から即興で演奏するなど遺憾なく才能を発揮し、ル・プティ・リツというニックネームで人々から愛されました。
大人になってフランツ リストの名前が広まるようになっても難解な曲をテクニカルに演奏するところは変わらず、彼はピアノの魔術師と称されるようになります。
彼が作ったピアノ曲で代表的なのは「愛の夢」で、3つの曲で構成されていますが最も有名なのが第3番です。
日本でも有名な女子フィギュアスケーターが競技に使用したことがあります。
ソプラノで歌うために作られましたが、現在では男性が歌うこともあり壮大な愛を表現しています。
最初から美しいメロディを奏でる独創的な構成で、右手も左手も主旋律と伴奏を担うのが特徴的です。
フェルディナント・フライリヒラートというドイツの詩人が作った「おお、愛しうる限り愛せ」詩に基づき歌詞が書かれています。
リストはスキャンダラスなエピソードを多く持つ人物でもあります。
17歳の時にカロリーヌ・ド・サン・クリックに初めて恋に落ちた彼は、芸術について深く議論を交わし合う素敵な関係でした。
しかしカロリーヌの母親が死去すると彼女の父により無理やり引き裂かれます。
リストが貴族でないからという理由で、カロリーヌは貴族男性と結婚させられました。
これにショックを受けたリストは死亡記事が出回るほど憔悴しましたが、ヴァイオリン界の鬼才であったパガニーニに深い感銘を受けます。
ピアノ界のパガニーニになると決意したことで、彼の超絶技巧の演奏はさらに磨きがかかりました。
次のスキャンダルの相手はマリー・ダグー夫人で、リストが22歳の時でした。
彼女は6歳年上の伯爵夫人であり、既に2人の子供がいましたがジュネーブに駆け落ちし2女1男をもうけます。
しかしリストが演奏会で家を空ける日々が続くと、マリーの不満が募って結局別れることになりました。
その後キエフで出会ったカロリーネ・イワノフスカと出会い、彼女も既婚女性でしたが夫と別居中でリストと愛し合うようになります。
作曲に専念するようになったのはこの頃で、ピアノ曲や交響曲が多く誕生しました。
50歳でカロリーネと結婚しようと考えていましたが、彼女の家族が反対したため破局しました。
その後マリーとの子供である長女と長男が死去したことで悲しみに暮れていたリストでしたが、58歳の時に19歳のオルガ・ヤニーナが現れます。
彼女はピアノを学んでいましたが過激なリスト信者で、リストにミスを指摘されると自殺未遂を起こすなど2人の関係は上手くいきませんでした。
他にも多くの女性の名前が挙げられていますが、リストの才能や美しい容姿によるところが大きいです。