ゲオルクフリードリヒ・ヘンデルは、1685年にドイツで生まれた音楽家です。
彼の特徴は、有名な音楽や著明な人物とほとんど無縁の家系で生まれたという点です。
普通、音楽家を目指す人物は周辺に同じように音楽への造詣が深い人物が関係していることが多いのに対して、彼にはその傾向がありませんでした。
実際に、同年に生まれた世界的に有名な音楽家であるバッハは、音楽一家の生まれであるためヘンデルはバッハと比較して語られることが多いです。
こうした環境もあって、ゲオルクフリードリヒ・ヘンデルが音楽の道を志すことを父親は反対したという経緯があります。
それでも、本人の強い希望によってその道を選ぶことになったわけです。
17歳になるころにはヴァイオリン奏者となっており、積極的に作曲活動も行っていました。
実際に、最初のオペラを作曲して成功したのもこの時期です。
ただ、この時代のオペラの人気は陰りを見せ始めていたころで時期が悪かったという背景もあります。
早々に見切りをつけたゲオルクフリードリヒ・ヘンデルは、当時の音楽の最先端を行っていたイタリアに移ることになりました。
イタリアに移った後も、彼の才能に陰りが見えることはなく成功を収めることになります。
イタリアで成功を収めたゲオルクフリードリヒ・ヘンデルは、イタリアで有名な音楽家であった人物の推薦によって一定の地位と名誉を得ることになります。
それからは、ロンドンに渡って宮廷も絡んだ幅広い音楽活動を行いました。
音楽家としての才能は、オペラ作曲家時代から顕著でした。
次々に名曲を作曲していき、興行的には大きな成功を収めたとは言い難いものでしたが、ロンドンでも一定の成功を収めるに至っています。
音楽家として有名になったころには宮廷から作曲依頼が入ってくるほどに地位が向上しましたので、その道の人物としては十分なほど成功をしているといえます。
こうした功績を誇る人物ですが、その対照的な人生を語る上でやはりバッハは欠かせない存在になっています。
同年に生まれたバッハは、ヘンデルと同様に素晴らしい作曲家であったのですが、非常に職人気質ということもあってヘンデルのようなわかりやすい宮廷での活躍などは表立って行ってきませんでした。
音楽家一家に生まれたはずのバッハは仕事人だったので、注目を集めることよりも音楽をこなすことの方に集中をしていたわけです。
一方で、ヘンデルは上記のように音楽一家として生まれたわけではないのに、その才能を買われて最終的には宮廷の依頼を受けるほどに注目を集めています。
事実、ヘンデルがドイツからロンドンまで渡ったのにも関わらず、バッハはついにドイツ語圏から外に出ることはなかったと考えられています。
ドイツからイタリア各地を渡り歩いたヘンデルとはまさに対照的な人物です。
死後にも、彼らの対応の違いは全く異なります。
仕事人として必死に働いたバッハは死後未亡人と一人娘に引き取られることになったのですが、ヘンデルはイギリスの偉人として葬られています。
ドイツ生まれにも関わらずです。
音楽性の違いに関してもわかりやすく、ヘンデルは複数の音を利用した音楽を重宝していました。
さらには、ヘンデルはドイツ生まれだったのに最終的にはイギリスに帰化しています。
日本ではヘンデルという名前でもちろん通るのですが、海外では彼のことをハンデルと呼ぶ者も多いです。
これは、帰化した後の名前がハンデルだからです。
ヘンデルはドイツ語読みの言葉で、日本ではこの名前で呼ばれることが多いわけです。
このように、ゲオルクフリードリヒ・ヘンデルは存命時代から音楽家として地位と名誉を手に入れた人生であったといえます。