日本はピアノを習っている子供が多いです。
数あるピアノ曲の中でも人気が高いのがショパンの作品です。
ショパンは1810年3月1日にフランス人の父親とポーランド人の母親の間に誕生します。
両親共に音楽を愛する家庭に育ったこともあり、4歳の頃からピアノに親しみモーツァルトやバッハなどの作品を知ることになります。
1817年になると生活環境も良くなり、恵まれた生活を送るようになります。
最初の作品であるポロネーズト短調を作曲したのが1817年で、父親の知り合いである伯爵の援助により出版されます。
宮殿でピアノ協奏曲を演奏してから音楽の才能に注目が集まるようになります。
1823年に高等学校に入学すると音楽の能力にさらに磨きをかけ、高等学校を卒業した後はワルシャワ音楽院に入学します。
作曲家としての才能を発揮するのはワルシャワ音楽院に入学してからで、恩師は繊細な感性を伸ばすことに腐心します。
1828年に初めてベルリンを訪れたショパンは作品の演奏を行い絶賛されます。
公爵の娘の演奏指導も行い、チェロの演奏を行う公爵のために序奏と華麗なポロネーズを作曲します。
1930年にワルシャワで演奏会を行った後にウィーンに旅立ちますが、ワルシャワでロシアの支配に対する11月革命が勃発します。
ポーランド人は突然危険人物として監視下に置かれるようになり、失望したショパンはパリへと向かいます。
パリに到着した彼はワルシャワ革命が制圧されたという一報を受け取り、絶望的な気持ちで有名な練習曲である革命を作曲します。
パリではリストと知り合い、メンデルスゾーンと再会を果たします。
パリでのショパンの生活は、ロスチャイルド男爵と知り合うことで一変します。
大富豪の男爵のサロンを訪れて社交界にデビューすると、男爵夫人が音楽の才能に魅せられて娘のピアノ指導を頼みます。
その後は貴族や資産家から次々と演奏指導の依頼が来るようになり、パリでの生活は裕福なものとなります。
男爵の娘シャルロットは音楽の才能があり、彼女のためにバラード第4番やワルツが献呈されています。
1827年にインフルエンザにかかり健康状態が悪化すると、付き合っていた女性マリアと別離してジョルジュ・サンドと交際するようになります。
彼女とマジョルカ島に滞在しているときに前奏曲集の作曲を進めますが、以前から患っていた結核が悪化したので1939年2月にフランスのマルセイユに戻ります。
マルセイユにはサンドの別荘があったので、そこで療養しながら即興曲第2番やバラード第2番、ポロネーズ第4番などの作品を完成させます。
1842年に大事な友人が亡くなると翌年の冬から病状が悪化します。
1844年に再びインフルエンザにかかって重体に陥りますが、春になると病状が回復します。
5月に父親が死亡したという知らせを受け取ると深い絶望に陥ります。
サンドの子供とサンドが対立する中で徐々に居場所を失いますが、1846年には幻想ポロネーズとチェロソナタを作曲します。
サンドとの間にできた亀裂が深くなり、結局サンドから別れを告げられます。
孤独になったショパンは招かれてロンドンに渡り、ヴィクトリア女王が臨席する中で演奏会を行います。
様々な栄誉を受けつつも、結核で体が弱っていたため衰弱が加速します。
イギリスではロンドンだけでなくマンチェスターやエジンバラ、グラスゴーでも演奏会を催します。
パリに11月に戻ると病気が悪化し、翌年の6月に大量の喀血をします。
姉がパリに到着すると、姉と友人たちに看取られて亡くなります。
彼の葬儀は10月30日に聖マドレーヌ教会で行われて、多くの人が偉大なる才能を惜しんでいます。